遷移系と遷移翻訳系

檜山正幸 (HIYAMA Masayuki)
Wed Feb 16 2005:start
Wed Feb 16 2005:draft

この記事は、刺激反応系の実例として、遷移系と遷移翻訳系について述べる、 ハズのものだった。が、実際は余計な話と予告である。

目次

1. はじめに

半世紀生きてみて、何が人生の悔いかといえば、もっと若いうちに子供が欲 しかった。子だくさんのお父さんになりたかった。子供がたくさんいれば、そ れだけ幸せになれる気がする。もっとも、僕のように稼ぎも甲斐性もない男だ と、「貧乏人の子だくさん」で辛酸をなめる事態になったかもしれない。たま に、若い親が子供をあやめてしまったというニュースも聞くことだし、なにが いいのか/なにがよかったのか、、、考えてもせんないことではあるがね。

って、そんな話をするんじゃなかった。話題は、小学校1年生のウチの子だが…、 いやっ、この子を話題にするんでもないのだが、彼の行動というか認識という か、ちょっと興味深いことがある。小学校1年生で引き算を習う。習った当時、 彼は自慢げにそのアルゴリズムを僕に教えてくれた。なんでも、ヒキタシ引き 算とヒキヒキ引き算があるのだという。僕は、そんなことは全然知らなかった、 実は初めて聞いた。

例えば「13 - 8」を計算するとき、3から8は引けないので、10から8を引いて、 引いた答の2と3を足して5とするのがヒキタシ引き算。一方、まず13から3を引 く、だがまだ5引き足りないので、さらに5を引いて答を5とするのがヒキヒキ 引き算なのだそうだ。

引き算のアルゴリズムに詳しい(少なくとも僕よりは詳しい)ウチの長男だ が、「100円玉で80円の買い物をしたおつりはいくらか」は分からない。「こ んなとき、引き算を使うんだよ」って教えてやって、やっと分かる。ただし、 分かるのは「引き算をすれば20が答だ」という数(かず)のレベルのことであっ て、「金額」とか「おつり」の概念はどうも理解してないようだ。

子供は総じてこういう傾向がある。意味なしの手順に、あまり抵抗がない。 むしろ手順そのものを遂行するのが楽しく感じたりもするようだ。ところが、 大人はそうはいかない。手順の背後に意味を探りたがる。あるいは、手順より 先に意味(あるいは意義)がないと安心できない。意味への執着、あるいは意 味の病(やまい)とでも言うべきか。

意味の病は、歳と共にひどくなるようだ。十分に年取った僕は実際、ひどく 意味にこだわる。そのくせ、他人が意味にこだわる姿にはイイ顔をしない。「と りあえず意味を考えずに、手順に慣れてくれよ」と思ったりするのだ。

勝手なもんだが、これはなぜかというと、何かを説明するとき、その意味を 十分に解説してから手順に進むのはとても手間がかかるからだ。世の中におけ る引き算の適用場面を十分に理解吟味してからでないと、ヒキタシ引き算とヒ キヒキ引き算(というアルゴリズム)を教えられないとすると、小学校の先生 は随分苦労するだろう。いや、引き算を教えることは事実上不可能になるだろ う。

僕は学校の先生ではないが、何かを説明する立場になることはある。その立 場からすると、手順に慣れてもらってから、その手順の適用場面に進んでもらっ たほうが楽なのだ。だが、これはまー、我が儘、愚痴みたいなもので、僕自身 を含めて、多くの大人は、意味なしの手順を押しつけられることに耐えられな い。需要が見込めない仕入れをしようとはしないのだ。子供達が、使用目的な しの学習やトレーニングを受け入れ可能なのは、彼らに十分な時間が残されて いるからだろう。

2. 続・はじめに

あれっ? で、この記事は何の記事だ。前節「はじめに」だけ切り出して、日々 の雑感を述べるエッセイにでもすればよいのかもしれないが、Chimairaサイト は「つれづれなるままに」書いた文面を載せる媒体ではない(でも結局、技術 的記事に「つれづれなるままに」が混入している気もするが)。実は、遷移系、 遷移翻訳系を述べる前段として前節「はじめに」を書いたのだ(←って、 ウソのような…)。

Janusコンポネント・アーキテクチャ(記事「コンポ ネント・アーキテクチャ」「Janus(ヤヌス)の紹 介 -- stdin/stdoutからの入門」参照)のキモは、コンポネントの定義で はない。ポートベースのコンポネントなら前例はいくらでもある。インターフェー スとプロファイルの計算ができる点がメリットだと思っている。さらには、イ ンターフェースとプロファイルにかかる“制約”も計算の対象にできるだろう と思っている。

計算とは、引き算がそうであるように、アルゴリズム的なものである。意味 は脇に置いて手順さえ実行できれば、とりあえず“答”は出るのである。ウチ の子がおつりの意味がわからなくても「100 - 80 = 20」と答が出せるように。

Chimaira/Janusにおける計算も、その手順だけ実行することはさほど難しく ない。実際、僕は記事「お絵描き圏論」 で次のように述べた。

コンパクト閉圏は本質的にやさしいものなのだ。小学3、4年生なら、計算の ルールを理解できるし、実際の計算も遂行できるだろう。

これ(小学3、4年生ならできる)はたぶんホントだと思う。ウチの子がもう 少し大きくなったら実験してみたい。だが、小学3、4年生ならできることだか ら大人もできるかというと、そうとは言い切れない。むしろ、意味の病をかかえ た大人は、無意味な図形操作/記号操作を無抵抗に学ぶのは困難だろう。需要 が見込めない仕入れは無意識にこばむからだ。

需要とか効能とかを今すぐ具体的に示せない内容を説明する立場にある僕の ジレンマがここにある。「手順→意味」という順序のほうが手早く説明できる と思うが、「意味→手順」でないと、納得してもらえそうにない。そもそも、 無味乾燥な手順の部分で嫌気がさしてしまうだろう。相手は大人だからね。

記事「お絵描き圏論」では次のような 予告をしたのだが、これはどうも、「相手は大人」という点を(強くは)意識 してなかった言い回しだ。

コンパクト閉圏を、小学生でも理解できるように説明できる。ジョーダンで もウソでもない。次の記事は、ほんとに「誰でもわかる『コンパクト閉圏』」 だ。

少し反省した僕は、意味を捨象したゲーム的な手順に走るのではなく(*注1)、 実際の対象や現象に近いレベルの話をもっとしようと思い直した。

注1

でも、だからといって、「誰でもわかる『コンパクト閉圏』」がずっと先延 ばしになるとは限らない。気が向いたそのときに書くでしょう。

「対象や現象に近い」とはいっても、具体的なコードの中で現存するAPIを呼 び出してみるような説明はしないと思うが、実装や設計の経験があるならば、 僕の話から自分の経験を思い起こせる程度には具体的になるだろうってことだ。

僕の「意味の病」が歳と共に悪化しているのは確かだが、僕はまた「抽象の 病」にもおかされているようだ。しかしまー、「意味の病」と「抽象の病」が 併存している状態は、「形式の病」と「具象の病」に同時にかかっているより はずっとマシだと思っている。自分勝手な見得を切ってしまえば、ビョーキの 領域に入らないと見えてこない事ってのもあるのさ。

3. 続・続・はじめに

えーと、いったいオレは何の話をするのだっけ? 子供の教育の話、いやっ、 そうじゃないわな。色々と、思いや意図について書いてみたのだが、いくらな んでも長すぎた。

もとをただせば、… オーッそうだ、「刺 激反応系」という記事の続き(みたいなもの)を書こうとしたのだ。記事 「刺激反応系」は、“コンポネントの中身”を定式化すると銘打ったものだか ら、(僕のつもりとしては)具体的な対象を記述している。だが、刺激反応系 が相当に一般的な概念であることも事実だ。

そこで、刺激反応系のある側面だけを取り出した事例を述べようとしたのだっ た。例えば、(必ずしも有限状態とは限らない)オートマトンとか、それに出 力を加えたミーリー(Mealy)型機械やムーア(Moore)型機械などが、そのよ うな事例である。色々なコーディング(符号化)に対するエンコーダ/デコー ダなんてのも事例である。

遷移系、遷移翻訳系とは、刺激反応系の特定の部類を意味している。記事 「刺激反応系」で導入した言葉を使えば、この記事の遷移系とは、{変更}-系、 または非常に単純な観測だけが行える{観測, 変更}-系である。そして、遷移 翻訳系は、{変更, 応答受理}-系である(これも、非常に単純な観測は入るか もしれない)。

4. おわりに

んっ! 3つの「はじめに」の後は「おわりに」かぁ? ふざけた話だ(こうい うのも面白いかな、とチョットねらっているところもある)。

結局この記事は、遷移系/遷移翻訳系について説明する気でいるぞ、という 予告だけで終わってしまう。こんな中途半端な記事を書くことは、ちょっと以 前の僕ならイサギヨシとはしなかった。だが、Web(Chimairaサイト)を媒体 として1月以上たち、多少は感触がつかめてきた。その感触、あるいは堕落と は、つまりこうだ: 一貫性、統合性、完結性に重きを置くよりは、あてにな らない予告も含めて、とにかく書いてみることだ。

誤解を恐れるから念のため言っておくが、「中途半端をイサギヨシとはしない」の は、僕の一般的な態度ではない。日常においては、ズボラとモノグサの極北を 目指している(いやっ、めざしてないメザしてない、結果としてそうなる)僕 だが、書き物に関してはちょっと潔癖症だった。だが、既に記事 「隗より始めよ」にも書いたように(↓)、これはラ イブ中継みたいな試みだ。静的な完成度よりは、“流れ”を含めた記述をすべ きなのだろう。

今回に限り、楽屋裏も含めて全部さらけ出すとどうなるか、と試してみたい。

僕は、曖昧性/混乱/錯誤が含まれるのは大目にみてもらい、あからさま/ 露骨に精神や原理が伝わる(ことを意図/希望している) 表現媒体としてChimairaサイトを使いたい。